◎      和賀心の追求。。      一心不乱の信心。。      金光教(お道)の信心の本質論。。      神様へ向かう信心態度。。

昭和四十四年六月三日 朝の御理解


X御理解 第九十七節 「神を拝む者は、拍手して神前に向こうてからは、たとえ槍先で     突かれても後ろへ振り向くことはならぬぞ。物音や物声を聞くようでは、神     に一心は届かぬ。」


 ご祈念の姿というか、ご神前に拍手して神様へ打ち向かうたら、このような一心いわゆる不乱のもの、一心不乱、一心を乱さない。物音を聞くようでは、「たとえ槍先で後ろから突かれるような事があっても」、といったように厳しく一心不乱ということをここでは教えておられていると思うのです。ね
 確かに、私はそういうひとつの祈念力というものを作っていくためには、どうでもそういう信心態度というものが大事だとこう思います。けれども私は今日、この九十七節から最近金光教の信心の本質と、いわゆるお道の信心の本質的なものは、あれだ。これだ。といろいろに説かれておりますが、そういうこのお道の信心の本質といったようなものに、私の考える、私流儀の本質的なものをまあ、この九十七節から聞いてもらいたいと思うのです。
 私は何というてもお道の信心は天地書附に見られますいわゆる和賀心。その和賀心の追求以外にはないと思うのです。お道の信心の本質というのは、ね、自分の心というものが、いつどのような場合にでも、どのような事に直面しても、いつも心が和である。和らいでおり、信心の賀びをいつも感じ取れておれれる心。そういう信心の賀びの心を求めてのもの。私はここの新聞の「根賀以」というものが出ておりますが、ねがいということが、[賀びを以て根とする。]と根本的なもの。いわゆるお道の信心の本質的なものを私はそこに置いているんです。そこから、すべての教えが生きてくるというか、又は、それを行じていくというか、そういう根本的なお道の信心はここだと。和賀心の追求だと。それを追求していく事の為にすべての教えがあるのだと。私しゃそういうですね、ひとつの信念を以てです。そういう一心を乱してはならない。
 もちろん、ここに「神を拝む者は」とか「神前へ向かってからは」とおっしゃっておられる事は、私共が信心生活というか、日々の生活そのものが神前へ向かったと同じものでなからなければならんという事なんです。拝む時だけでなくて生活の態度もやはり、それでなからなければならい。そういう頂き方から九十七節は頂けるのです。そういう例えば本質的なところに触れて信心が進められていく事が、そんならどういう結果をみるか。どういうおかげになってくるか。
 「信心して霊験のあるを不思議とは、言うまじきものぞ。」「信心して霊験の無き時はこれぞ不思議なる事ぞ」というような信心して霊験の無きは不思議な事だと、いわれるくらいな不思議な働きというものが、不思議な神様の働きというものが、私共の身辺に起こって来なければ、駄目なんです。ね、神様の間違いない働き、神様の不思議なるまでの働きが、自分の身辺に感じられるようになる。商売は繁盛してくるであろう。不健康な者は健康になっていくであろう。家庭不和であった者は円満になっていくであろう。一番難しいといわれる、たとえばそういう人間関係とか、経済問題とか、または健康の問題といったようなものが、いうならば、薄紙を剥ぐように私共からその事へ向かっていく。しかも、それがです。子孫にも残っていく。
 御理解百節に「目出度、目出度の若松さまよ。枝も栄える。葉も繁る。というではないか。金光大神は子孫繁盛、家繁盛の道を教えるのじゃ。」と、金光大神が教えられる。家繁盛、子孫繁盛の道とはどういう事かと。私は、この九十七節の信心態度を以てです。和賀心を追求していくこと以外にはないと思うのです。九十七節に見る神様へ向かう一心不乱ですねえ。心を乱さない。これだと。金光教の信心はこれだと。お道の信心の本質ということが様々に説かれるけれども、もうこれだと。これは私はそう思い込んでいる訳です。
 それは誰が何というても、たとえば、槍で突かれるような事があっても、ということは、どのような雑音が入っても、自分の心だけは、この事に心を動かさない。物音聞くようでは、という事はです。人がちょっと甘い事を以ていうたら、ひょろっと迷う事のないというふうに頂かにゃいけんと思うのです。神に向かうてからは、槍先で突かれても、例えば、振り向く事は出来んというくらいな一心。物音聞くようでは、まあだ、神様に届いてはいない。人の非難、又は、人の甘言といったような事にです。心を迷わさんで済む。物音聞くようでは、というのは、そういう事を聞かんで神に一心に向けるという事は、もうすべての事柄というかね、その事が焦点に置かれるのは和賀心である。そういう心を以て信心をさせてもらうところから、信心して霊験のあるを不思議とはいうまじきものぞ。と祈りて霊験の無き時はこれぞ不思議なる事ぞ。といわれるような金光教の御信心の絶対のものがですねえ。感じとられてくる、体験ずけられてくると思うのです。
 ですから、祈りて霊験の無い時には、お願いをしておかげの受けられない時にはですね。結局、和賀心の追求の足りない事に直結した考え方でいいと思うのです。こういう例えば、難儀なら難儀な中から和賀心を求めるという事は、どのような事であるかという事をですね、追求していかなければならない。そういう事を金光大神は家繁盛、子孫繁盛の道を教えるとは、その事だと思うんです。
 最近、私は思わせて頂く事は、家繁盛の道は教えても子孫繁盛の道は教えてないような気がするのです。これが併せて頂いていかなければ駄目。商売繁盛するこつと、それがですね、どうも本質にそれていっておるような気がするのです。
 私、昨日たまたま、お道の新聞を見せてもらい、それから最近廃刊になっておりました、あの玄潮という雑誌が、今度は皆さんにもそれをとってもらうことになるんです。一年間、何百円でしょ?。こういうもんです。またなかなか洒落た本でもあります。昨日それを見せて頂いておりまして、まあ一気に読ませて頂いたんですけれども、そのーそれを例えて言うとお道の信心がですね、もう実に淡々としたものになっていきよる事ですね。
 いうならばですね。信心して御利益とか、おかげといったものは考えないというのです。ただ、心の持ち方が変わる。というところに焦点を置いてお話をしてあるのが書いてあったり、それかと思うと、これは高宮教会の御信者さんで、商売で大変おかげを受けておられる人のお話なんですけれども、御用一本ですねえ。
 例えば今月なら今月の御用の計画というのは、もう月初めに立てられる。そして、御用は先手先手というふうにいうておられますが、とにかく、一月を終わってお礼にお供えするといったのじゃなくて、そのお礼をですね、もう頂く前にするという訳なんです。お供えなんかでもそれは思い切った事が出来ておられるようですねえ。高宮教会の御造営の時なんかも中心だったらしいし、又、これから奥城が出来る事に一生懸命になっとるという意味の事を書いてございますがね。もうこの生き方以外にないんだと、この生き方でいきゃ絶対商売繁盛するんだ、金儲けが出来るんだというふうな極端から極端なお話を、一冊の中で読まして頂いた。 
 森所長の言うておられるのなんか、もう淡々としてお道の信心でおかげなんて言うとっちゃおかしいというような、こういう行き方でいくのが本当だというような表現で、しかし、今の本部の偉い先生方はみんなそうです。おかげといったようなものはもうふせてある。だから、こういう行き方でいけば、奇跡と思われるような事も起こるかもしれんと言うてある。そして、事実は奇跡は起こってないという事ですねえ。
 例えば金光様の御信心は、信心して霊験の無い事の方が不思議だというておられるでしょう。そんなら、私の言うのは、その霊験というのがです、私は信心してというのは、ここではどういう事かというとです。いったん神様に向こうたからはですねえ、いわゆる一心不乱、乱さない、何を乱さないかというとです。昨日からの御理解の中にもあったように、天成地也というところの地也というところですねえ。もう信心はここに極まった、金光様の御信心はこれに極まった、というておるのが地也である。
 これは、いよいよ本心の玉を研いていくという以外にない。日に日に改まっていく以外にはない。この地也という信心は・・・。いわば黙って受けて、黙って与えていこうというのである。黙って受けていくというところにですねえ。自分が改らなければおられないものが生まれて来るのですよ。黙って受けていくという事は・・・・・。例えば、子供の不行状とでも申しましょうか、子供が言う事を聞かんとしましょうか。それを黙って見ておるというだけじゃないのですよ。その目の余るような様子を見てからです。私が改まっていく以外にないというのが黙って受けるという事なんですから・・・。
 様々な難儀をそこに感ずる時です。私の一心が足りんから、私の改まりが足りんからと、もうお道の信心というか合楽ではこれだけしか言ってないです。いうなら子供の病気は親の病気だとしておるんです。そこに自分が研かなければおられないものが生まれてくるんです。そこからです。そこからですなんとはなしにそういう頂き方が天地に通うのです。神様がお喜び下さるのです。「そうだ、そうだ、お前が改まっていく以外にないのだ。」と、「ようもそこに気がついたな。」というふうに言われたり、思われたりするのであろう。そのかわりのようにして頂けるのが信心の喜びです。
 自分はこのような問題でも、言わんで済む自分になられたという事がですねえ、有り難いんです。その有り難いというか、豊かなというか、その喜びの心を以て与えていこうというのです。子供なら子供の事を祈っていこう。あれではあの人が幸せにはなれんのだと。だから黙って受けて黙って与えていくという事はそういう事。黙って受けていくという事は、自分が改まっていく以外にはない。
 黙って与えていくという事はです。そこから研かれた光が放っているようなものなんです。改まった。そこから信心の喜びが湧いてくる。その喜びのゆとりを以て、その相手なら相手の事を祈っていけと、むしろその事を与えていくという訳です。いうならですね。昨日、秋永先生の奥さんが、昨日の御理解を頂いてお届けされますようにです。合楽での信心、これは私しゃ敢えて合楽と申します、だいたいいうたら金光様のご信心は私しゃこれだと、私しゃ思うとります。
 ですからもうお道の信心の定義、というのは分かっておるんだと。毎朝、毎朝繰り返し繰り返し頂く事はこれなんだから、理屈は分かっておるけれども、実際問題にぶつかる時にです。いうならば、応用問題にぶつかったら、もうその応用問題が解けてないのが現在の私ですと。もう今日から本気でその事を取り組まして下さい。というて、昨日、お届けがあったんです。みんなもそうでしょう。その信心の定義というのは分かっているんです。その事によって与えられ、又、黙っておられるおかげと。そこにお徳を受けていく、というかね、しかもです、私はそういう生き方でなからなければです、子孫繁盛家繁盛という二つ並べたおかげにはなってこないという事です。
 昨日、私がお道の玄潮という本を読まして頂きます中に書いてあるのは、いま言う、もう、淡々としてそのお道の信心によってです、教えを頂いて人間の思い方、考え方が変わって、例えば、リューマチという現代の医学ではどうにも手のうちようがないというのがリューマチとガンだといわれてるそうですが、そのリューマチにかかって、悲嘆の底にあらねばならない人が、道の教えを頂いて非常に明るい生活をしておる。だから家の中が実に明るいんだと。もうこの世の敗残者というような自分でも思い込んでおった人がです、その教えを頂いて明るく、むしろそういう中からでも、生きがいを感じておるというのである。だからそこんところだけを強調して説いてある訳ですねえ。
 その現代の医学ではどうにも出来ない病気がです、そういう心がけにならして頂いたら、徐々におかげを頂いて今日では全快のおかげを受けたといったようなおかげの事は、むしろ、もう、ふせてあるのではなかろうか。これを言うたら金光様の御信心がおかしいと思われると思うておられるのじゃなかろうかと思われる位に、そこんところを言わんのが金光様の御信心のように感じるのです。最近のお道の信心は・・。
 そして、事実、その奇跡とかですね。そういう霊験が、もう実に実に少なくなっている事です。かと思うと、そんならかたや商売の事の方ではですねえ、例えば御用する、たくさんのお供えをどんどんさせてもらうという事が、商売繁盛のおかげ頂かれるんだという、いうならば、天理教ではそれを天理とこう、いうそうですね。天の理だというわけです。もう、たらいの水を向こうに押しゃ必ず返ってくるというのです。食べたものは必ず出さなければと、体が不調になるんだと。風が欲しいなら窓を開けろ。そこの入り口だけを開けたんじゃない、こちらのほうも開けろと、それが天の理だというふうに説く訳です。そういう天の理だけ確かに理ですね。ですからそのことに一生懸命、押せば返ってくるんだと、そういうおかげを受けておるという事を、臆面もなく書いておったり発表してあったりしておる。どげん考えても最近の金光教の信心はおかしいです私しゃ・・・。
 昨日も申しました、天地書附がお道の信心の御題目なら、そのお題目の中にある、いわば、お道の信心の本質的なものはどこかというとですねえ、いわゆる人間が神様になっていくという事なんですからね。いわゆる生神への道なんですからね、お道の信心は・・・。
 それが例えば昨日、今日から頂いております、いわゆるお道の信心はもうこれに極まったと、いわゆる地也の信心です。改まっていく以外にないんだ。研いていく以外にないんだと。それをここでは二つ合わせて、限りなく美しくなる、と申します。限りなく美しゅうなっていけば、どういうことになるかというと、生神への道をたどっておる訳なんです。そこには例えばリューマチもなからなければ、ガンもない。本当にそこにおかげが受けられんほうが、不思議な位におかげが現れてくるのがお道の信心なんだ。そういう生き方ならば、商売繁盛だけではない、んなら家繁盛だけではない、子孫繁盛が約束される。
 最近、幹部研修会のありました中に、偉い先生方のお話を頂きましてもです、ここの本心の玉を研いていく事が信心だと。和賀心の追求だ、といったような事はひとっつも出てこないんですよ。というて、そんなら言うてない訳じゃない。知らん訳じゃないですけれども、それはむしろふせられたようにしてですねえ、だから合楽だけはこの事だけにしぼっている。私はおかげを頂いてゆく、そうゆう例えば、いわば御用すりゃ助かるといったようなね、生き方では本質的なものから、それはおかげの枝葉ではありましょう。お道の信心の枝葉の中には、そうゆう事がたくさんあります。又、教えてもあります。
 けれども、それは、どこまでも本質的なものではない。本質的なものはどこまでも和賀心の追求である。それは実に難しい事。その応用問題を自分の生活にあてはめていくということは実に難しい事であるけれどもです、そこのところを倒れ転びでもしながら行じていくところからです。信心の楽しみ、信心の喜び、同時にそこには霊験の神様の約束が果たされる。私は合楽でおかげを頂かれる方たちはですねえ、どうでもここのところに、・・・・。
 神を拝む者は拍手して、合楽にご縁を頂いたからには、もうここのところにいよいよ、ぎりぎり、焦点をおいてゆく以外にないんだ。この喜びの追求以外にはないのだ。この和賀心を目指しての信心以外にはないのだと、私達は思い込んでもろうて・・・。
 何とはなしにお道の信心があっさりとですか、さらさらとしてきた感がある。いうならば、お茶ずけの味の香りである。教えを頂いて心の持ち直しが出来て明るい生活が出来てきた。その明るい生活にはこういうものが伴うんだと。いうならもう少ししつこい位なですねえ、支那料理に見るようなですねえ、味の深さといったようなものが、むしろ、信心の臭いがするといったようなものが、段々影が薄うなってきた。
 かと思うとです。例えば又、それとは反対におかげを頂いている人達が、おかげを求めておらん者はないからでしょうけれども、おかげを受けていく人達が、私はこのような問題でこのように本心の玉を改まらしてもろうたり、研いたりさせて頂いたら、このようなおかげが受けられたというのではなくて、こういう御用をさしてもろうたら、こんなにお供えさして頂いたら、このように商売が繁盛しとります。という事に二つに分かれておる感じなんです。両方とも私は本質にそれてると思うのです。私は本当にこれを正々堂々とお道の信心の中にそういうひとつの切り込みをかけたいような気がしますけれども、それにはこちらがまだ力が不足しております。
 昨日も私申しますように、合楽の御信者さん方は、まあだ、おかげを受けてる人達がないのだと。ですから、合楽の御信者さん方が、例えば、私がいう生き方を以ておかげを受けた時に、御用したから助かったのじゃない。御用したから儲け出したのじゃない。私が思うお道の信心はこれだ、というものをです、いよいよ自分のものにしていく事に従ってです、こういう御用も出来るようにならして頂いたんだ。そこから信心の臭いが信心の香りになってきた。その徳の香りがするするような信心になってきたという事がです、おかげを受けて頂かなければです、いわば平田さんが言うておられますように、最近のお道の信心が間違うてきた。根本的に間違うてきよると、言われるがです。私もその意味とはちった違った意味合いに於いて間違っていきよるような気がするのです。
 そして、私が思うことは、今合楽で言うておること、これが本当だと。金光大神はそれを教えようとしておられるのだ。そして、それこそがです、「目出度目出度の若松様よ、枝も栄える、葉も繁るというではないか。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃ。」とおっしゃる。家繁盛、子孫繁盛の道はね、そのような信心から頂かれる。家繁盛、子孫繁盛でなからなければならない。例えば、御用すりゃ助かるというのは、確かに天の理であるかもしれません。おかげを頂いたけん、お礼をするというのじゃなくて、おかげを頂く前にぼーんと出す訳です。出すから又、ずっと入ってくる訳です。そういう理もありましょうけれども、それでは、なるほど家繁盛はするかもしれません。商売繁盛はするかもしれません。けれども子孫繁盛にはならんと私は思うのです。
 そういうところを私はこの九十七節から大変意味が違うようですけれども、ここでは、御祈念の様子とか、姿とか御祈念さしてもらう者の心がけというか、この九十七節に説いてございますけれども、お道の信心は神様を拝んでおる時だけではない、生活もそのようでなからねばならんという建前から言うとです、私共が実生活に入らして頂いてからでもです、槍先で突かれても、それをびくともせん、振り返ることのない、どんな雑音が入って来ても、その雑音を聞かんで済む一心不乱の信心が生活のうえに表されていくという意味合いで、そんならどこに一心を置くかというとです。和賀心への願いである。和賀心への追求である。そして、私が思うのは、例えば金光大神が教えられる子孫繁盛、家繁盛の道というのは、そのところを起点としてです、そのところを根本的なものとしてです、金光教の信心の本質は、そこにあるんだとして、御理解百節に見るようなおかげを表してゆかねばならん。
 そして、金光様の信心は、例えば、御用といったようなことじゃない。それは、天理教ならいざ知らず、天理教は、もう絶対こればっかりですね。先日、私は天理教のある方の書いてある本を読まして頂きましたが、すべてが天の理を説いてあるだけです。本心の玉を研くといったようなこともあるに違いないですけれども、それを正面に出してないです。金光教の御信心はこれが正面に出てこなければ、駄目なんです。そのはずの金光教がです、最近はあまりにも淡々として御利益といったようなことには、もうあんまり口に出さないのが本当の金光様の御信心のようにいうたり、かというと、おかしいじゃないですか、御用すりゃ助かるといったようなことを真っ正面から打ち出していっておるという二つにある。肝心要の中心であるところの本心の玉を研いていく。そこから生まれてくる和賀心が頂けるのだ。といったようなことには、あんまり関心を寄せてないというところにです、私はこれから合楽の信心を身につけていく人達のです、いうなら責任をですね、感じさせて頂けるようなものを、私は感じます。
 どうぞ、ひとつ、ここのところに焦点を置いてです、それは、お道の信心の本質論といったことを様々に説かれておりますけれども、私はここをはずしたら、お道の信心の本質はないと思うのです。これは、何宗何派が何というてもです、もうここ以外にはないんだと。それを何宗何派といったようなものを金光教の中に、取り入れているような感じがする。そして、取り入れながらです、段々金光教的な本質のものが薄うなっていっておるような気がするのですよね。  どうぞ